2007-04-02

21世紀に大変革は起こるか?-7

たいして興味があるわけでなく、そもそもルールが込み入っていて(観ていない)私にはわかりにくいけれど、この番組が視聴者を引き付ける理由をついでに話しましょう。なんといっても視聴者の興味を引くのは、番組の「ハウス」で催される競技で勝ってリーダーとなったメンバーが一人を指名し、あとの一人を、リーダーを除くメンバー全員の個別指名方法(各メンバーが隔離された場所で指名。

この実況を視聴者に見せる)によって決め、この両者の一方が視聴者の投票によって番組から外されることです。このいわば俎板に乗せられた二人は、泣いて懇願してもいいし、自分が「ハウス」に残らなければならない理由を堂々と主張してもいい。とにかく彼(彼女)らが生き残ることによってこの先、彼(彼女)らの存在が視聴者の好奇心をいかに満足させるか、ということをアピールします。この間、格メンバーが生き残るために戦術をねり、ときに手を握り、ときに裏切りも辞せずと、誰かと誰かが結託して「ハウス」のどこかでヒソヒソ話をします。

メンバーは互いの真意を知ることがきませんが、視聴者には、誰と誰が連合して誰を排除しようとしているかなどわかります。もし最後まで残ればかなりの賞金を手に入れることができるし、落とされても、才色兼備で視聴者の人気を得ればタレントしての道が開けます。実際「ビッグ・ブラザー・ブラジル」出身のタレントをテレビで見かけることが多くなりました。とにかく人間の情念をくすぐるアクの強い番組です。以下にイギリスの「ビッグ・ブラザー」に関する記事がありました。
英国の人種偏見とテレビ番組「ビッグブラザー」

シャイで自己主張の苦手な日本人には、やはりこの手の番組は難しいんでしょう。雑談はこのへんにして話を戻しますと、「ビッグ・ブラザー」のアイディアは、ジョージ・オーウェルのアンチ・ユートピアSFと分類される、「1984年」からといわれます。ちょっと長いけれど、またウィキペディアから持ってきました。次は「ユートピア」からの解説で、「逆(アンチ)ユートピア」についてです。

20世紀に入ると、「理想郷」と宣伝されていた共産主義国家や全体主義国家が現実の存在となったが、その理想と実態の落差を批判する逆ユートピア小説が描かれた。これもユートピア文学の紛れもない一種である。

たとえばHG・ウェルズの「モダン・ユートピア」(1905年)、エヴゲーニイ・ザミャーチンの「われら」(1924年)、オルダス・ハックスレーの「すばらしい新世界」(1932年)、ジョージ・オーウェルの「1984年」(1949年)や、エルンスト・ユンガーの「ヘリオーポリス」、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」などの小説によって管理社会、全体主義体制の恐怖が描かれた。これらに描かれた国家は、一見すると平穏で秩序正しい理想的な社会であるが、徹底的な管理により人間の自由が奪われた逆向きのユートピア(ディストピア)とされた。

当時の共産主義社会や今日の管理社会に対する予見であり、痛烈な批判である。またそれを生み出した過去のユートピア思想や、その背景となった文明自体も攻撃対象である』。「1984年」については、次のように解説しています。

『イギリスの作家ジョージ・オーウェルの小説。トマス・モア「ユートピア」、スウィフト「ガリヴァー旅行記」、ハクスリー「すばらしい新世界」などの反ユートピア小説の系譜を引く作品で、スターリン時代のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。出版当初から、冷戦下の英米で爆発的に売れ、同じ著者の「動物農場」やケストラーの「真昼の闇黒」などとともに反共思想のバイブルと見なされていた時期もあったかも知れない。

しかし、そもそもオーウェルはケストラーと共にスペイン内戦で人民戦線に参加し、ナチスと同盟関係にあったフランコ軍と戦った左派知識人であり、あらゆる形態の管理社会を痛烈に批判した本作のアクチュアリティは、コンピューターによる個人情報の管理システムが整備されつつある現代においても全くその輝きを失ってはいない』。ウィキペディアにある解説だけでも十分面白いので、ヒマ人のあなた、是非とも読むことを勧めます。

面白いと思うのは、これが20年ほども昔のことなら、「ビッグ・ブラザー」が、プライバシーに敏感だった西洋社会でこれほど受け入れたかどうかです(もっとも、人間の好奇心や覗き趣味に目隠しするのは、かなり難しいといえる)。なぜなら上の解説では、管理社会における監視をネガティブに捉えているはずです。けれども近年のトレンドは変わりつつあります。まず次のURLを覗いてみましょう。

このようにイギリスでは90年代後半から、防犯目的でカメラを使った監視手段を強化しています。アメリカはテロ防止目的のため、この類の手段も含む様々な施策を実施しているはずです。そしてこちらの混沌では、前の「システムとイデオロギー」で触れたように、監視カメラを使った防犯システムが猛烈な勢いでそこここに設置されています。私の拙マンションでも公的エリアのいたるところにカメラを設置し、最初のころは小型監視カメラの横に「微笑んでね」などという、ジョークか?と思われることを書いたプレートを貼り付けていました。

はじめはプライバシーうんぬんで不快がった連中でも、このごろはまるで空気のように感じなくなったようで、この忌むべき?新事態に慣れてきてたと言えるでしょう。というよりも、皮肉にも人々は、監視カメラの目の届かないところにいると襲われるのではないかと不安になっているようです。実に予想外な事態となりました。

さて、ここで想像をたくましくしましょう。みんなが安心感を得られる防犯システムですが、誰かがこのシステムのネットワーク化をもくろみ、別の目的にも利用したとすればどうでしょう。あなた!我々は、自由だ、民主だ、共産だ、社会だ、全体だ、独裁だ、などという政治体制なんぞにかかわりなく、すでに未来に入り込んでいるのですぞ!なんて皆さんを脅してはみても、カメラの前でポーズをとったり微笑んだりすることはないとしても、私自身慣れっこになってしまい、残念ながら問題意識や違和感をそれほど感じません。

例えばサン・パウロの中心街でバッグを強奪したドロボーが監視カメラのおかげですばやく拘束されたり、リオのビーチに監視カメラが設置されたため、かなりの防犯効果があったなど、利点もまた大きいことは言うまでもないことです。それでも私は、カメラに見られているといった意識だけは、失わないように心がけているつもりです。

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