2007-05-06

21世紀に大変革は起こるか?-21

混乱後の大変革:
さて、前回まで「変革の前兆」についてヨタりながら長々と、なんとかゴマカシつつ考察しました。結論すれば、どこかの誰かの予言、予知などと同様、21世紀では、大方の人類にとって暗い未来が待っているかもしれません。ここであなたは何かを期待するかもしれませんが、残念ながら私は、どこかで地震が起こってあっちこっちをツナーミ(津波)が襲うとか、何年何月になんとかのパンデミックが起こりそうだというような預言者の真似事などしません。

すでに戦争のことはシナリオを書きました。自然災害については、預言者達に任せることにします。ただそうは言っても、ここまで混沌が地球全域に広まってしまった現在、6500万年とか何万年前だか、かつて恐竜やマンモス、あるいはその他の、地上で我が世の春を謳歌していた種が絶滅したように、人類もこのたぐいの試練のフルイをかけられるのかもしれません。

このタイトル、「21世紀に大変革は起こるか?」の都合上、実際に自然(災害)ないし人為的(戦争)な試練が起こると仮定して、人類全体が考古学者によって発掘されているような骨や廃墟になってしまうのか?ここではそうならないとします。例えば温暖化によって地球が400のチンチン状態にならないという仮定の仮定ではありますが。

例えこのヨタ話や大預言者による大混乱が現実のものとなったとしても、それでも少なくない人類と、ひょっとしたら、その後継者(新人類?)が生き残って次の繁栄の時代を築くものと思えます。なにしろ最初の生物が地球に出現して以来、生物の種が尽きたことがあったと証明するものがないと思えるからです。まあ、他の惑星から来たという説もあるかもしれません。

あるいは、起きたとしても混乱はそれほど大げさなものでないかもしれません。しかしながら一旦始まれば、戦争や環境破壊など、限界がくるまで徹底的にやるのが人間なのかもしれません。人口にしても、それなりのバランス点に達するまで減少してしまう必然性があるかもしれません。

地球上の他の種との共存を他でもない人間が脅かしています。それを防いでバランスをとるためには、結局のところ人間の情念に規制をかけるしかありません。混沌に住む私にとって、混沌の原因のほとんどを占めるのは、人間の本性である情念にあると思っています。最後の手段として勃発する戦争、紛争は言うまでもなく、人間の小社会の情念にかかわるいざこざは、そのまま国際社会の関係にも当てはまるはずです。

資源の有無、環境汚染と破壊、貧富の格差、ナショナリズムや国益、宗教など、原因となるタネは尽きません。そして政治的に利用されやすく外交辞令に終わりやすい人権、博愛、友好といった理想は、本来の理念から遠のいていくばかりと思えます。

普通人々は、他の者と共存していくために愛の重要性を語ります。夫婦愛、親子愛、隣人愛、人類愛、そして博愛というように。愛は人間にとってもっとも偉大な感覚で、つねに人を突き動かし感動させるものでしょう。しかしそれゆえ愛は情念によって利用されやすいと思えます。こちらに住むと感じられるのですが、混沌に落ちているにもかかわらず、いな、絶えることのない混沌に苦悩するゆえか、あまりにもアモール(愛)のレトリックがそこいら辺に溢れているため、この言葉自体が日常生活のなかに埋没し、本来の輝きを失っているような気がします。ただしこちらからすれば、アモールをなんにでもくっつけるのは、私の意識と異なる文化によるわけですから、なにをバカなことぬかすの?とでもたぶん言われるでしょう。

それゆえ愛を語り、あるいは語られても、かんぐれば虚偽かもしれず、自己都合によって反故にされる可能性があり、実際のことになると、たいして長続きしないようにも感じます。そしてもし皆さんがこの考えに同意してくれるなら(同意してくれなくても話を勝手に進めますが)、情念を規制できるキーワードとして、私は愛よりも自覚を重視します。

私はこの自覚について考えているうち、仏教の因果応報を思い出しました。「因果(いんが、梵 hetu-phala)は、もとは仏教用語であったが、転じて原因と結果のことを指すようになった。ある事象を惹起させる直接的なもとと、それによってもたらされた事象。一般には、事象Aが事象Bをひき起こすとき、ABの原因といい、BAの結果という。このとき、ABの間には因果関係があるという」。ウィキペディアは難しいことを言う。

次に適当な引用といえるかどか、もうひとつ、私が昔読んだヘミングウェイの、「誰がために鐘は鳴る」の冒頭にあった、17世紀のイギリスの詩人、ジョン・ダンの説教集の一節を挙げましょう。

「なんぴとも一島嶼(とうしょ)にてはあらず なんぴともみずからにして全きはなし ひとはみな大陸(くが)の一塊(ひとくれ) 本土のひとひら そのひとひらの土塊(つちくれ)を 波のきたりて洗いゆけば 洗われしだけ欧州の土の失せるは さながらに岬の失せるなり 汝(な)が友どちや汝(なれ)みずからの荘園(その)の失せるなり なんぴとのみまかりゆくもこれに似て みずからを殺(そ)ぐにひとし そはわれもまた人類の一部なれば ゆえに問うなかれ 誰(た)がために鐘は鳴るやと そは汝(な)がために鳴るなれば」(大久保泰雄氏訳の全集より)。

つまり、人間誰しも一人で存在するのでない。人は大陸の一部なので、独立した島々ではないのだ。波浪という災難は、友人だけでなくオマエをも襲う。誰かの死はオマエの死に等しいのだ。みんな人類の一部なのだから、あの弔鐘は誰のためになっているのか?と聞くのでない。それは他ならぬオマエのために鳴っているのだ。たぶんこういった意味だろうと理解しました。

要するに私の言いたいことは、自分が(利己的に)やったこと、あるいはやらなかったことは、いずれなんらかの形で自分に(災いとなって)帰ってくることで、あとで気がついても取り返しがつかないことである、ということです。人類がもし地上の物(者)と共存し、調和して安定と平和を保とうとするなら、現在の拝金、浪費社会にある自己中的、せつな的な自由を、自己の自覚によって「自己規制」する必要がでてきたように思われます。

現在に至るまで、人々が幸福感、満足感を得るための手段として、ひたすら経済成長にまい進してきた結果、様々な対策が模索されているとはいえ、膨大なゴミや環境破壊などを生んでしまいました。このことは資本主義国に限らず、イデオロギーの違いなど関係ないことが今はっきりしてきました。そしてこれを変えるために我々ができることは、過度なエゴイズム、マテリアリズム(物質主義)を終焉でさせることでしょうか。このことは同時に、国や個人にかかわらず清算不可能となった債務という、やっかいな不安定要因をも解消する道だと思われます。

では自覚による「自己規制」によって起こりえることはなんでしょうか?現在の物質的な満足感を追求することなどでなく、より精神的なそれに重点を置く文明社会への転換でしょうか。私には、このことが今世紀以降の、人類の命題になると思えます。

0 件のコメント:

コメントを投稿