2009-09-17

信じられないことを認識することの難しさ

宗教を始め、民衆を支配するための「たぶらかし」の歴史が始まって以来、実効支配する者たちは、「分割・分断統治」に代表されるように、騙しのテクニックに磨きに磨きをかけてきたんでしょう。したがって我々「ゴイム」がそれを見破ることなんぞ、きわめて難しいことだと思えます。しかしながら、たとえそういったイカサマをバクロし、検証できたとしても、ほとんどのケースがそうなんでしょうけど、今度は肝心な、大多数の「ゴイム」さんにそれらを認識してもらう段になると、とたんに検証する以上難しくなっちゃって、ときに不可能とさえ思えます。

誰でも「彼ら」によって巧妙にプログラムされたマインドコントロールないし刷り込みにかかれば、それを信じきってしまい、洗脳されたというよりも、脳に物理的にインプラントされたマイクロ・チップ(ハードウエア)になってしまった信念といった感じで、あとでいくら検証情報(ソフトウエアとかデーター)を入れて、それの修正を試みたところで、パソコンのBIOSやファームウエアのような、ソフトによる簡単な変更ができなくなってしまった、といったイメージを私は持っています。

要はアタマの柔軟性なんでしょうね。その時代の環境と価値観の下に歳月が過ぎて、自我・自己が良くも悪くも確立して固定化してしまった時点では、当然ながら?ほとんどの人々にとって、変化してしまった環境と価値観に適応させるのは、極端な意味で自己否定するようなもんであって、猛烈なストレスに直面しなければならないのかも。例えば、たいていの人は、今の若いのはナニナ二でケシカラン!私の若いころはカニカニしたもんだ、といった、歴史的に繰り返される、世代間の行動・行為の相違を嘆き、それを否定し憤(いきどお)ることによって自らを慰め、そのうちに寿命がつきて生涯を終える、といったことが普通なんでしょう。

したがって、そういった「常識人」には、たとえ当初は不本意だったとしても、とりあえず環境に適応し、それなりに心地よく安住してきた価値観に、天地がひっくり返るような(もちその人にとって)変化が訪れたとすると、耐えられなくなって、それを全面的に否定してしまうことになるんでしょう。まあ、こんなことを長々とトーシローの私がここで論じるよりも、どっかに適当な書物があって、もっと専門用語を駆使した、洗練された解説をしているのかも。

少し前のエントリーで、ひさしぶりに日本人の知人に会って話し込んだことについてちょっとばかし触れました。このときインチキ新型インフルの話になって、この知人は、日本人が当局や「マスゴミ」にダマされて、おとなしく言われるままにされているさまを批判したんです。ったく日本人はお人好しだからね、と私は応えたんだけど、いや、それよりも、ブラジルに住む我々と違って、島国の中の同族意識があるから、そういったことを疑うしたたかさがないのだ、といった感じの主張でした。

これはいいとして、そのあと私は、これからパンデミックや暴動・紛争が激化してくるだろうし、あと二年もすれば、ついには第三次世界大戦が起こって多くの人間が死ぬことになる、ってな話を始めたんです。1929 年クラッシュ後の大恐慌のような経済崩壊が起こり、やがて大戦争が起こる、ってな我が主張は、もう10年以上前からこの知人に繰り返し話していたことなんですね。

そしたら例によって最後には、それほど人間はバカじゃないという、私からすれば「信念」を主張したんです。人間は最後には目覚めるはずだ、という希望的な信念なんでしょう。では、なぜ人間が過去に二つの世界大戦を起こして、おまけに原爆まで落としなの?とは言わなかったけど。それで、いつもこの類の議論はすぐに終了させています。どんなに説明したところで議論が平行線になるからです。

この知人もブラジルで長く暮らしたおかげで、日本人ほどお人好しな考え方をしないと主張しているようなんですが、結局のところ私が思うに、(多少したたかなところもあると思ってるけど)日本人の大多数が持っていると思われる、「人間性善説」によった信念からはずれることがないんですね。

ウソをつくことは悪いことだ、というのが普遍的な価値観だと教えられる環境で育てば、人々をいかに騙すか、そして、それを気づかれないように騙し続けるにはどうしたらいいか?といった、「彼ら」がそのテクニックを何世紀もかかって磨いてきたことなど、理解できるはずがないんでしょう。以前も「彼ら」のことを話したとき、この知人が反論したことは、「彼ら」が地球を支配するために、はたして自分の短い生涯をささげる価値があるだろうか?莫大な財産を持って墓場へ行くというのか?といった主張でした。

そんな「常識人」にとって、信じられないことを理解するということは、もしかしたら死んでしまうくらいのストレスがかかるのかも、と私には感じられます。あるいは別エントリーで何回が触れたことがあるけど、そんな話なら知らないほうが幸せだったとか、もっとはっきり言えば、実は「彼ら」がつけ込む「ゴイム」さんの感情である、「何も知らないほうが幸せだ。奴隷でいることが一番の幸せだ」、といったように、認識することによって受けるストレスの苦痛から逃避したいのかもしれない。

「宇宙人ユミットからの手紙」に、パプア・ニューギニアに探検隊が入って、文明から隔離していた現地人に映画を観せたときのことが書かれてました。その映画は丘陵に広がる人口密集地帯を映したものだったらしい。自動車や馬(ずいぶん古い話だな)が通り過ぎていくのが見えたとき、通訳が現地人になんに見えたかと質問したところ、みんながニワトリだと答えたそうです。彼らには、そう応える知識しかなかったのでしょう。

上の話は極端かもしれないけど、それとは別の、現代人による反応例も挙げてました。つまりプチ氏は、ストリーキングがはやってたころ、知り合いの美人とイタズラでそれを実行したという。二人とも全裸になって服をバッグにしまい込み、夜更けのエクス・アン・プロヴァンスの街の通りを、落ち着いて家まで歩いたということです(やっぱ口笛か鼻歌でもやったんかな?)。そのときすれ違った多くの人たちの反応は、自分の見たものがにわかに信じがたかったらしく、なにごともないように(気がつかずに)通り過ぎたと語ります。

でもあなたは、気がつかないなんてことは起こらん、と主張するでしょうね。最初は私もこの話に疑問を持ったんです。しかし当時の人々の常識では、今と違って全裸の人間が夜の通りを散歩していることなど起こりえないと考えていたとしても不思議ではない。つまり時代や環境によって、起きた事件に対する人々の認識が変わるということでしょう。

しつこく言っちゃえば、過去の自分の全人生を否定することになってしまうのだろうか?だとすれば、「信じられない」のではなくて、「信じたくない」のでしょうね。でももっと単純に、モノグサでわずらわしいことがいやな人にとっては、あとで後悔することになったとしても、いちいち疑ってかかってちゃあ生きていけん、という理屈なのかも・・・といったことで、とにかくそんなことには耐えられない人々がいることも事実だと思います。

ダチョウは危険が迫ると頭だけ隠すという

しかしながら、そういったことで寿命を終える「常識人」は、我々はそれでいいとしても、これから存在していかなければならない新人類にとっては、それでは済まされない問題なんでしょう。となれば、現生人類が残す世界を引き継ぐ彼らの進化した脳によって達成される、意識や自覚においてバランスのある社会を、そして新しい文明を創造するための礎(いしずえ)となる責任をも、我々が背負っていると言えるのではないでしょうか。

なによりも自覚しなければならないことは、我々現生人類の行動が、知的生命体としてまだ進化レベルの低い、動物的で本能的な欲望や感情が理性よりも優先する、宇宙人ユミットが指摘した「旧脳」によって支配されているということです。残念ながら、近代になって確立された人権・自由・平等・博愛・正義、あるいは民主といった理念は、そんな不完全な脳によって正しく社会に反映されることなどありえなかったことです。それらは「ゴイム」さんを支配するための、「彼ら」のマインドコントロール・ツールでしかなく、その実体は空虚だったのです。

人間の本質的な行動は、科学技術の大いなる進歩にもかかわらず、相変わらず「人間性悪説」によって支配されていたはずで、人間の本質は善であると信じ込むのは間違えです。なぜなら、世界中のさまざまな機関が(表面上ではあっても)解決努力しているにもかかわらず、なぜ紛争・戦争や諸犯罪がなくらないのか考えれば理解できるでしょう。どう弁解しようと、これは厳然たる事実であって、なんとしても認識すべきことなんです。もう時間はそれほど残されていません。みなさんの中から少しでもこのことに気がついた人々が増えてくることを期待して止みません。

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