死に関しての誤解がある。人体は我々の集合意識が創り出す実体のない幻想であり、「この世」における魂(個々の意識)の単なる乗り物に過ぎない。我々が「この世」で死んだあと、我々の魂は消滅することなく「あの世」で引き続いて存在し、転生する機会を得る(「死生観について-輪廻転生と同性愛」参照)。これが限りなく繰り返されるのだ。
新文明では、我々は安楽死を積極的に実施するべきである。ここで治癒方法がない植物人間状態や、重度の精神障碍のような場合以外の例を考えてみよう。
アリストテレスは「人間は、目標を追い求める動物である。目標へ到達しようと努力することによってのみ、人生が意味あるものとなる」と言ったという。
我々の人生の使命は我々の進化であり、我々にとって「この世」で生きる意義は、我々の魂が進化、進歩するための経験を積むことである。このためには、自らの困難(それが何であろうと)にチャレンジし、それを克服する努力をしていかなければならない。すなわち自分自身に打ち勝つことである。
もしこの使命を拒否するなら、すなわち「この世」で苦難に直面することなく安楽に人生終えたいと欲するなら、その人生には意味がない。安楽死で「あの世」へ戻るべきである。したがって、我々は苦難を恐れてはならない。
人類進化イヴェントが起こる理由は、現文明の政治・社会・経済システムが破たんしているからで、民主主義、人権、自由平等、友愛(事実上、こういったことは偽善である)、家族などといった、現在の普遍的価値が混沌を引き起こすからだ。
私は「新人類による新文明について」によって新文明の概念をより明確にした。現在の普遍的価値観を放棄しない人々は新文明にとって脅威である。それらの人々が進化イヴェントから生き残ったとしても新文明が受け入れることはない。新文明政府は、それらの人々に強制的な安楽死を施すことがある。
例えば、危機や失敗によるトラウマに苦しみ、人生に目標のない、ひたすら無気力な人生を送る人々がいる。しかしトラウマは苦難というよりもむしろチャレンジであり、彼らにとって精神力を鍛える機会なのだ。治療においては、自主的にそれを克服させるようにすべきである。もしそれらのトラウマによって進化するための挑戦ができないのなら、安楽死を願い出て「あの世」へ行くべきだろう。
通常、高齢者は体力・気力・知能・適応力などが衰える状況に直面する。もしその問題のために自力で生活ができないのなら、「この世」でさらに経験を積む能力も無いだろう。もし彼らが介護者の助けなしに生活できず、生きるための目的や質を持てないのなら、彼らの期待寿命がどれだけ延びたところで無意味なのだ。この場合、安楽死を求めるべきだろう。
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