みなさんに真っ先に指摘しなければならなかった重大なことに気がつきました。それは、宇宙の未来を、進化した宇宙の姿を誰も知らないということ同様に、現在の本当の宇宙の姿も誰も知らないということです。人類の科学者たちによる宇宙モデルが間違っていることは確実でしょう。けれども、今までのエントリーの中で説明してきたユミットの宇宙理論が真実だと理解することもまた誤りなのです(ただし私の考えでは、ユミットの説のほうが理にかなっています)。このため、関連エントリーの削除または訂正を含めて熟考しましたが、この注記を追加することのみに止めました。
なお、ユミットは自らの理論を検証し、その理論を人類へ刷り込むために(人類との「意識の葛藤」で有利になるために)人類の進化イヴェントと私を利用しています。(2013年4月6日追加)。
最新の三つのエントリーの中で、私は「意識の葛藤」について触れたけれど(以下参照)、このことについてユミットから示唆がありました。どうやら進化における「意識の葛藤」について、私の理解が不十分だったようです。というよりも、それは人類の常識的な進歩・進化という概念からすれば正反対と感じられるような、実に意外な理屈なんですね。以下にそれを説明してみましょう。
人類進化イヴェントに常識的な善悪は存在しない
知的生命体が進化するとすれば(表面的ながらも)人類の進歩や文明化がそうであったように、博愛し、尊重しあう傾向がより強まってエゴイズムや暴力的傾向はなくなるだろうし、最終的に社会に調和と平和・安定が実現するだろう、と常識的な人類なら考えるでしょう。言うまでもなく私もそう考えていました。しかしながらユミットの思考では、進化はそういった結果を生まないということらしい。むしろ野蛮な時代に戻るような感じですね。
過去の多くのエントリーで、人類の常識的な思考によって、私を尊重しないユミットのやり方をことあるごとに非難してきました。ユミットは執拗に私に嫌がらせを仕掛け、何度も私をうんざりさせてきたのです。私がどう非難し説得しようとお構いなしのアスペルガー症候群の行動そのものでした。そんな私にとって理解しがたいユミットの行動は、次のことが理由だったのでしょう。
先の三つのエントリーで私が(その真意をよく理解できずに)強調したように、宇宙の全知的生命体の進化、すなわち宇宙の進化とは、「意識の葛藤」の結果として起こります。しかしユミットによれば、我々の常識に反して、互いの尊重・調和・和解といった過程を経ることによって起こらないということです。私は理解したつもりで「『限りなく存在する』宇宙とは?」を書き上げたのですが、「意識の葛藤」がそこまで徹底されたものだとは気がつかなかったんです。それはまさに戦いそのものでしょね。
つまりユミットは、私に「意識の葛藤」を仕掛けていたのでしょう。そう考察すれば、ユミットの度を越した執拗なまでの私への「攻撃」について、きわめて不快ながらも理解できます。「ユミットのクソヤロウぶちXXしたる」、といったあんばいで私は何度も激高したことがあります。でもユミットとはテレパシーとPC(ハッカー行為)を通してのコンタクトがあるだけだったんです。そういったことからすると、ユミットが直接的なコンタクトをしてこなかった理由の一つは、私に対する「意識の葛藤」に備えたということなのかも。
というわけで、ここで「意識の葛藤」について、もう少し突っ込んで考えてみましょう。要するに「意識の葛藤」は、互いの意見の違いからくる議論を経て、妥協・調和が得られないことから起こる実力・暴力行使へと進み、最後に戦闘による一方の消滅(死亡)におよんで決着すると考えれれます。最後の戦争行為ですね。しかし人類の感覚からすれば、殺人行為は最大の罪であり、悪ということになるでしょう。
私はもちろん殺人を奨励するつもりなどありません。しかしあえて言えば、人を殺すことは絶対悪であるという「文明・進歩的」な価値観もまた誤りなのです。キリストは「汝殺すなかれと」と言ったそうだけど、建前はともかく、宗教家でさえもこの言葉を絶対的に遵守できる者はごく少ないと思えます。それでも中には妄信的に守ろうとする者がいるかもしれない。そしてもしその根拠が、なぜなら命は唯一無二で二度と戻らない、なにものにも代えがたいものだから、といった主張なら、その根拠には誤認があるでしょう。
ここで宗教について指摘するなら、混沌こそが宗教の存在理由なのです。人々は、健康や生活に悩みや問題があるため、あるいは死後を恐れるからこそ宗教を必要とするはずです。私にはそれくらいの理由しか考えられない。そんなペテン宗教によって上の根拠を刷り込まれているに過ぎません。でも我々の体は意識によって形作られた幻の(意識・魂を入れる)入れ物に過ぎず、その入れ物が機能しなくなって消滅したとしても意識までは消滅しないのです。
ついでながら、再犯の恐れが強い殺人鬼でも死刑にしてはならない、という死刑廃止論者の主張は、いわゆる原理主義でしかないでしょうね。よく廃止論者が冤罪の問題を指摘するけれど、それは裁判が適正に機能していないという技術的な問題であって、問題のすり替えでしょう。
怒ったとき、私はユミットを「シナチョン」の自己中に例えたことがあります。率直に言って、日本人として生まれた私の価値観からすれば、シナチョンのどうにも直しようのない国民性に反感をもっています。ウソによる歴史認識とかの主張でも、声を大にしてゴマンと繰り返すことによって、もし相手が根負けしてそれを認めれば事実になりかねない。なにしろ「集合意識」によって造られている世界なのだから。
しかしながらそういった自己中も、絶対悪という概念を当てはめるのは殺人同様に間違いなのでしょう。彼らの日本人にない強烈で自己中な信念は、「意識の葛藤」で生き残るための必要条件のイッコだからです。ただし自己中そのものは両刃の剣で、自ら「意識の葛藤」を増やし、生き残るチャンスを減らすことになります。
前のエントリーで進化イヴェントに善悪は存在しないと私は主張しました。以上説明したことは、「彼ら」やシナチョンのエゴ・自己中を善悪で判断することに意味がないことの理由なんです。そして倫理・モラルについても同様なことが言えます。有史以来、人類は倫理・モラルを絶対善と理解してきたはずだけれど、それはつまり、「意識の葛藤」の中では、エゴ・自己中になるよりも生き残るチャンスが高くなるからなんでしょう。私は倫理・モラルを重視します。しかし進化の過程でどちらが生き残るかは、結局のところ誰も知らないのです。
したがって日本人が「意識の葛藤」で恥知らずなシナ人と朝鮮人、そしてその背後で糸を操るアメリカや「彼ら」と戦って生き残るためには、「お人好し」であることを、思いやり・優しさや平和的な解決手段とかを放棄する必要があるでしょう。まったくのところ、潜在意識の浄化・次元上昇で「アセンション」とか言って、お花畑な人類の進化を期待しているみなさんには、驚愕的な結論になるでしょうね。
テレパシーと書き手としての能力は別にして、「彼ら」のように狡猾な連中には、疑い深くて、なんでもありの混沌のブラジルで外人慣れしている一人住まいの私は利用しやすいんじゃろ、ってな程度に最初は感じていたけれど、なぜユミットがキリストか釈迦のような度量と人類愛(それとも友愛とか?)をそなえた「人格者」を選ばず、私のような冷淡なところがある我の強いモンを選んでコンタクトしてきたのか?今その理由をやっとこさ理解したところです。
以上、「意識の葛藤」について、ユミットの主張を紹介しました。で、あなたはこれに同意するでしょうか?もちしない?それでいいんです。もしあなたが「意識の葛藤」の海を泳ぎきって生き残ることができれば、あなたの意思が現実になるのだから。宇宙に生息するすべての知的生命体にチャンスがあるんです。世界・宇宙は、その知的生命体の集合意識しだいでどのようにも変化するのです。未来は、存在しない「神のみぞ知る」ではなく、文字どおり誰も知らないのだから。
いい機会なので、みなさんの厳しい批判を覚悟で私もついでに主張することにします。「あの世」が「彼ら」に実行させているNWO陰謀の一部に合理性があることを我々は認めるべきだと思うのです。もち「彼ら」や一部支配者のエゴによって市民を奴隷化することは反対だけど。例えば混沌を防ぐための厳しい人口制限や、いわゆる優生学は必要だろうし、現行のイカサマ民主主義制度を貨幣経済と一緒に廃止し、個人の自由・人権に今以上の厳しい制限を設けるべきでしょう。そして人類の政府と言語は統一されるべきです。
また、進化の意義を理解すれば宗教は必要なくなるでしょうし、支配やペテンのツールにそれが利用されやすいことを考慮するなら、むしろ宗教を禁止すべきです。「彼ら」や犯罪者たちは、神が存在しないことを誰よりもよく知っています。もし神が存在するとするなら、その神が禁じていることを彼らはできないでしょう。
最後に、「『限りなく存在する宇宙』とは?」の最後のパラグラフで私が主張した以下のことに関し、ユミットがテレパシーによって反論してきました。要するに、ユミットのより進歩したテクノロジーや兵器も結局のところ物質や人類の科学技術、数学とかと同様な幻想であって、「意識の葛藤」において人類よりも優位性があるとはいえない、ということです。人類には、それらに反撃できる能力があるということでしょうか。
進化とは、優位性を有する者が、そのテクノロジーの力で他の者を制圧することによって達成されることだとは思えない。明らかに優越するユミットの驕りが感じられます。これこそが人類とユミット間の、上に示した「意識の葛藤」なのです。