前回では、「虚空と君のあいだに」という「彼ら」の下請け情報操作ブログ?のことを成りゆき上取り上げました。そんでこのブロガー、「まっこうモグラ」は、やい!ブラジル(私のこと)、「俺をまず疑え!!」、なんて主張してはばからない?たっての望みのようなので、私は同ブログを怪しいブログと、晴れてここで正式に認定し(まっこうモグラさん、これで満足してもらえる?)、最近のてきとーなまっこうクジラのエントリーをまな板に乗っけてぶつ切り・・・ちゃった、モグラにイチャモンをつけてみることにしました。
では、前回触れた「イルミナティ哲学の探訪」をもいちど読んでみましょう。そう・・・猿でもわかるイルミナティ哲学、って決めつけてたやつです。そんで、そのお猿さんなみ(以下?)の我がドタマでチェックしてみると、哲学の基本は、「大衆(夢遊病の群集)は、いつまでたっても馬鹿であるか?」から始まっている、ってなお説で、我々「ゴイム」を対象にしてることは明らかなようです。この点について、前回私は、ここの文章には、「彼ら」が「ゴイム」さんをたぶらかして支配するための、長年にわたって時間をかけて洗練してきた統治ノウハウが混ぜ合わされて書かれているんじゃないか?と述べました。
このあとに書かれたよくわかんないゴタクを飛ばすと、よーするにイルミナティの哲学には、ロックさんとヒュームさんとカントさんがかかわっているらしい。そんで簡単に要約すると、三人の思想はそれぞれ以下のようなことらしい。なるほど・・・我々「ゴイム」は、経験を積んだとこでいつまで経っても社会を構築できないし、どっかの「神様」によって指名された指導者を正統な支配(統治)者として認めちゃう馬鹿だから、神様を騙(かた)ることによって馬鹿な「ゴイム」さんを支配しちゃお、っていうわけなんかな?
ロック「大衆は、今は馬鹿でも経験をつめばきっと良くなる」
ヒューム「大衆は馬鹿だ。だけど、誰が社会構築したらいいか、わかんねぇ!」
カント「大衆は馬鹿だ。よって神というのを作ってコントロールすればいい。」
イルミナティの思想は「大衆は馬鹿だ。だから俺達が社会を構築してやる!!」という、まともな(!)考え方である。けして、ロックに近いわけではない。イルミナティがロックを肯定した部分は、ロックが経験的な改善の障害になるとして、王権神授説を否定し、社会契約説をとったことにある。
神様から「理性(※1)=社会構築の権利を自分達だけが授かったんだ。」みたいな、日本の天皇賛美の右翼や戦前の話を思い出せば、誰でもわかるだろう。それをわかるのも、「経験が改善を促してる」わけだ。そしてカントを否定した部分は、「大衆は馬鹿だから、神様で騙そう」という部分である。
神、霊魂や見えない物などの全てを否定した自然学に分類されるヒュームを、カントは引き継いだのに、逆にカントは、理性(※1)に「神」やらを持ってきてしまったわけである。社会構築に神というツールで、馬鹿な大衆を統制しようとした。これはモーセとかと何も変わらない。これは、カトリック世界の中から生まれて来た、百科全書を聖典とする科学探求サロンが起源であるイルミナティが賛成するはずがない。
私がここにある文章を正確に理解したとはとても言えないでしょうから、あとは私が注目した記述を適当に挙げると、例えば、「大衆は馬鹿だから、彼ら自身が社会構築してる=奴隷ではないという錯覚が必要」という考え方、とか、宗教もその宗教の上位組織ほど、その神様を「幻想という機能」であると理解してるわけ。理性や道徳なんかを振り回してる奴ほど、それが幻想だと気づいてるし。ユニセフと食料メジャーとか、なんて記述です。
そして別のそれらを私が適当に解釈すると、中央銀行制度やマスコミの情報操作による陰謀について、二者択一によって完全にそれらを拒絶することは不可能だと言いたいらしい。なんとなれば、貨幣が陰謀の元凶というならどんな貨幣を作っても使えないし、操作されているという情報もまた操作されてるはずだし、悪徳警官を非難するなら自分で警官をやるしかない、ってことらしい。
そして民主主義は錯覚であって、馬鹿な大衆を操るツールということらしい。また「彼ら」は、理性(良心)は道徳や経験的な改善によって蓄積される、という幻想を「ゴイム」さんに刷り込み、自らはそれを幻想だと理解している理性的な?「選民」ということらしい。それで「彼ら」の思想は、改良型ヒューム哲学という感じで、中身は選民思想バリバリの進歩的社会主義という。・・・・・馬鹿な大衆には、「美しい神の道徳と福音」を与え、裏では、「そんなもんねーよ」とコントロールする手法、だそうです。さらに、そもそも、ヒューム哲学が、アホな二元論を生み、極端な「全か無か」という2択を生んでしまうように、哲学とは本来、何も生み出さないものである。ただ、整理するためだけに存在する、そうです。
イルミナティ哲学の探訪
「選民思想は経済学から進化論へ」という次にアップされたエントリーでは、ヒュームの懐疑的経験論は、「大衆は馬鹿であるか?」であり、そこから、あのダーウィンの進化論も生まれてきた、と主張する。ほほう!?つまり選民思想を確定するためのツールが進化論という。そう言えば、「彼ら」が進化論の信奉者だという主張はどっかで聞いたことがあったような?で、誰が生き残るかというトマス・マルサスの「人口論」のオイしいとこをダーウィンがパクって、自然界では強い者が生き残り、弱い物は死滅する弱肉強食ということになったらしい。そして経済学も選民思想そのものと指摘します。これはグローバリズムや市場原理とかのことを言ってるんでしょうね。
そのあと、このブロガーは、強いとか弱いとかいう判断は誰にも出来ないし、生き残ったという原因は強弱なんかではなく、ただ環境と偶然が働いた結果として生き残ったのであって、それは進化じゃない、って主張してるようです。合理主義という名の人類削減計画が行われようとしてる現在、それを追いかけると経済学が人口管理という概念を生み出したということ。進化論から弱肉強食という理由付けをつくり、搾取行為を正当化してること。全部、選民思想の「支配者のツール」である、という。なるけし。
そして以上のようなことを考察・指摘できた自分は、ダマされて食べられてしまう馬鹿な大衆、っていうよりは、むしろ選民であるオリコウさんなんだ、って言ってるような雰囲気です。まあ、このブロガーの正体が、選民思想を持っているらしい「ニダ」さん系のマヨさん?なら言いかねないことかも。そして以下のように本音を漏らしちゃってる。ただ私から言わせてもらえば、実際には、この「まっこうモグラ」さんも「ゴイム」さんを情報操作するために利用する、「彼ら」の賞味期限のある使い捨て末端ツールのイッコにすぎない、という認識がないってことです。殺しても生き残れだって?きっと、あとで逆に始末されちゃうとか。
俺は、どんな人にでも「殺されないように生き残りなさい」と思ってるし、「殺してでも生き残りなさい。」とも思っている。俺の「殺してでも生き残れ」という考えは、誰も強い種と弱い主が判断できないように、それでは「勘違いの弱肉強食」という、今の作られた搾取構造を半分認めていることと同義である。
選民思想は経済学から進化論へ
ホントに2008年の年初から始まってるブログなのかどうかは知らんけど、最初のころのエントリーをちょっとばかし読んでみると、同胞の「ニダ」さんに対するふがいなさを指摘してるのには、けっこう(((( ´,,_ゝ`)))) プッってワロタ。それでやっぱ、ロスチャイルドvsロックフェラーっていう、ありもしない煙幕説・フィクションを陰謀論の支柱にしてるらしい。
ってなわけで、この「虚空と君のあいだに」ブログも、「彼ら」のスバらしく洗練された「ゴイム」支配ノウハウの一端を(マ)ヨタ話のなかで披露(バクロ?)し、「ゴイム」さんを意味どおり恐れ入らせてしまう(相手の優れている点に、すっかり感心して、まいったと思う+すっかりコワくなる)ための情報操作ブログなんでしょう。
さて、最後に最も重要なことをつけ加えておきましょう。別の情報操作ブログである「心に青雲」なんかもヘーゲルの弁証法を支柱にしてるけど、私にとってそれら哲学は、人類にとって重要な問題じゃないってことです。なぜなら、ここで率直に、簡単に言ってしまえば、哲学や社会科学の研究・探求を深めれば、人類が理想的な社会を構築できるか?という問題を考察すると、残念ながら、本能が支配する旧脳によって行動する現生人類に、それで解決するすべなどないということでしょう。
もち、「選民」を恥知らずにも自称する、ちょー自己中な「彼ら」にできることではありません。宗教が人々を救うというよりも、「ゴイム」さんを支配するためのツール(「たぶらかしの歴史が終えんする」参照)であったことと同じことで、たぶらかしのツールという面が実態なのでしょう。哲学では人類を救うことができません。混沌のない進化した社会は、人類の次なる進化によって、すなわち意識が進化した新人類によってのみ可能になることだと考えられるんです。
たぶらかしの歴史が終えんする